挫折
小学生の頃から、絵を描くのが好きで、実は漫画家志望でした。でも、周りの子よりも飛び抜けて絵が上手かったわけではなく、美術の成績も中の中。中学生になる頃には、すでにその夢を諦めていました。
転機
絵は上手じゃないけど、緻密な作業は得意だったので、中学生の時、美術の先生から建築家をすすめられます。何度も薦められるうちに、すっかりその気になりました。
思想の世界へ
軽い気持ちで入った建築の世界ですが、建築学科2年目の授業で、建築論に触れると、その世界観にすっかりハマります。それまでは、「おしゃれなお家を造ろう」ぐらいにしか思っていなかったのですが、建築論には、『公共とプライバシー=客観と主観』の問題や、『資本主義社会の反映etc高層ビルの量産・単調な家・景観に配慮しない広告看板』、『未来への無責任etc雨漏り・空き家・環境汚染』や『文化の象徴etc宗教建築・城郭・記念館』など、深い思想の世界が広がっていたのです。それからというもの、自分の思想を深めるために、様々な本を読み漁りました。当然、建築の本を読むだけでは物足りず、この時に、哲学や宗教にも触れていきます。
建築家としての目覚め
建築論を突き詰めた先に待っていたのは、理想と現実のギャップでした。実際の現場で求められるのは、論ではなくお金。『効率だけを求める風潮』や、『お客様には逆らえないという諦め』、『建てたらそれで終わり、その後のことは知らんぷり』
それが社会の現実だ、といわれればそれまでかも知れませんが、しかし、私はここで諦めきれませんでした。『業者とお客様』という関係性が、建築論を机上の空論にしてしまっているのであれば、そのような関係性を打ち砕いてしまおう。私が『業者兼お客様』として、論に基づいた建築を実現させる、その時、私はそう決意したのです。その決意を胸に執筆したのが、私の二冊目の著書『建築論他三篇』です。
自分の夢を実現させるには、何か別の収入源と、それを実行に移すための、自分の会社が必要でした。しかし、今の時代に建築業界で独立するのは難しい、ましてや、能力的にも劣っている私が、一か八かにかけるわけにはいきませんでした。そんな時に、最初に頭に浮かんだのは、農業です。実際、建築から農業へ移行すること自体は珍しいことではなく、私の周囲にも、同じような考え方の人がそれなりにいました。考え方的には、ランドスケープという職業にも近いように思えます。でも、これは裏を返せば、それだけ競合相手が多いということを意味していました。
僧侶になる
単純に、建築と農業を掛け合わせるだけでは、競合相手に力負けすることが見えていたので、私はもう一つ、武器になるものが欲しいと考えていました。そんな時に出会ったのが、日本を代表する哲学者、西田幾多郎です。西田の思想は、これまでの私の価値観を転覆させました。それは絶対の個性であり、創造的であり、しかしながら、世界史の立場、場所の立場に立つ。かくして、彼は私の俯瞰的な立場を一刀両断しただけでなく、矛盾と自覚に導きました。そんな西田の思想は、建築論にも充分転用できる、そう確信しながら、私は西田の人生を追いかけるように、僧侶になりました。
処女作の出版
西田の思想を自分のものにしよう、と試みたのが、私の処女作『思索から論理へ』です。私なりに西田哲学を咀嚼して、自分の思想的立場を表明した一冊です。
浄土真宗へ
ただ、私と西田との違いは、西田が禅宗を選んだのに対して、私は浄土真宗を選んだということです。これには、農業が深く関係していました。
浄土真宗といえば、宗祖は親鸞です。親鸞は、おまじないや葬式仏教などに、重きを置きませんでした。彼は、日々の日常生活、特に自給自足の生活に、仏教の本当の姿を見ます。自分が命をいただいていること、そして、そのためにはどれだけの労力が必要であるか。これは自給自足の生活の中でしか見つけられないからです。お金さえ払えば、飯にありつける、そんな時代だからこそ、私は親鸞の教えに現代性を感じ、またその教えを全うする意義を感じます。
思索の成果を絵で表現
かくして、私なりに思索を深めてきたわけですが、これまでの思索の成果を示す手段として、かつて私が好きだった絵を思い出しました。これが、絵にメッセージを込めて表現する、画家・思索さんの始まりです。
これからの展望
建築学科を卒業し、僧侶としての実務を経た今、ラストピースは農業です。農業を通じて、本当の仏教の意味、すなわち、本当に生きるということに向き合う。さらに、農業で得た収入を元に、先代の遺した負の遺産(空き家)を改修して、私の建築論を反映した、建物を建築・運営。私が理想とする建物は、自然との共生を叶える建築です。そのためには、農業は必須の要素となります。